すずめ舎に宿るアマレットの精
アマレットコーヒーと、アーモンドの香りをめぐる小さな謎。

慌ただしいポーランド出張を終え、帰国する前に、スーツケースを菓子でいっぱいにした。言葉でうまく伝えられない愛情は、ときどき相手を太らせることで、自分の存在を証明しようとする。
それ以外の土産は、もう体の中に収まっていた。ウォッカと、森深いポドラシェ地方の自家製蒸留酒である。あちらではどの家でもこれを造り、村人は非常時に備えて、いつも五リットルほど持ち歩いている。少なくとも、私はそう理解した。
人々はそれを「ドゥフ・プシュチ」、つまり「森の精」と呼ぶ。飲んでみれば、取り憑かれるのは人間のほうだった。その意味では、私はいまや鹿やイノシシやオオライチョウと同じく、ポドラシェの森の一部である。
帰国後、最初の月曜日は、時差ぼけで頭まで泥のように重くなり、家と静けさと、エアコンという奇跡さえあればよかった。
翌日には、どうにか外出できる程度まで人間に戻っていた。そこでケイと一緒に、池田でいちばん好きな店、アキラさんとリエさんのすずめ舎へ向かった。
手土産は、ポーランドのクッキーの詰め合わせとカルキニョリス、それにスペイン風オムレツ、トルティージャについての本だった。その本は、料理以外の点でもなかなか勉強になった。
アイスコーヒーはアキラさんにすべて任せた。豆も、焙煎も、淹れ方も、全部である。アキラさんに任せておけば間違いない。だから、細かいことはもう訊かないことにしている。
メニューには、放っておけない新顔もあった。色とりどりのゼリーが浮かぶソーダである。
透明な小世界がいくつもグラスの中を漂い、光を受けてきらきらしていた。色はトゥッティ・フルッティ。形は紙テープか、名前のない生き物。見るたびに姿が変わる。
ストローで吸うと、まずゼリーが途中で詰まる。こちらが諦めかけたころ、今度は逆向きの滑り台を駆け上がるように、突然口の中へ飛び込んでくる。待ち構えていても、その勢いも形も二度と同じにはならない。ゼリーには、経験から学ぶ気がないらしい。
その日の私は、時差ぼけからの社会復帰が順調に進んでいるものと信じていた。
アキラさんがアマレットの話を持ち出すまでは。
新しく作ったアマレット入りのコーヒーを飲んでみないか、と訊かれた。私は「はい」と答えた。考えてから答えたのではない。ディケンズのピクウィック氏なら、きっと理解してくれたであろう種類の衝動だった。
信号待ちで、通りすがりの突風に帽子をさらわれたとき、手が勝手に伸びるのと同じである。人間は理性によって「はい」と言うこともあるが、多くの場合、「はい」と言ってから理性を呼びに行く。
返事をしてから、アマレットという酒が、昔から周到な誘惑に一役買ってきたことを思い出した。
サロンノに伝わる話では、1525年、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子ベルナルディーノ・ルイーニが、町の宿屋の女主人を聖母のモデルに選んだ。彼女は礼として、杏の核を蒸留酒に漬け込んだ自家製のリキュールを贈ったという。
それから五百年。池田のカフェには、フレスコ画も宿屋の女主人もいなかった。だが、酒で人を誘惑する仕掛けだけは、故障ひとつせず動いていた。
歴史とは、これから起きることに、昔の人が先回りして名前をつけておくことなのかもしれない。



その一杯は、おいしく、香り高く、見事に調和していた。アキラさんの作るものは、いつもそうだ。
ケイとユカさんは、カップに鼻を近づけた途端、そろって身を引いた。二人の繊細な鼻には、ポドラシェの森の歓迎はいささか酒が強すぎたらしい。
私の鼻は、そこに退却を命じるようなものを何ひとつ嗅ぎ取らなかった。むしろ、すぐにビターアーモンドを思い浮かべた。ベンズアルデヒドという分子の香り。あるいは、それより少し官能的で、花を思わせるベンジルアルコール。
なるほど、辻褄は合う。同じ系統の香りは、杏の核にも潜んでいる。
あの香りの正体は、アキラさんのカップの中の何だったのか。あの神々の飲み物には、実際どれほどアルコールが入っていたのか。
私は知らない。できれば、この先も知らずにいたい。
知識は多くの謎を解いてくれる。しかし、午後を美しくしてくれる謎まで、すべて解く必要はない。
わからないままだからこそ、五百年前の誘惑の気配が、池田の午後にほんの少し戻ってくる。
フレスコ画も、宿屋の女主人もいなかった。
けれど酒だけは、ちゃんとそこにあった。

店舗情報
すずめ舎
- 所在地
- 大阪府池田市栄町7-3 — 池田駅から徒歩3分
- 営業時間
- 11:00〜17:00、日曜・月曜定休(不定休あり、詳細は毎月のカレンダーをご確認ください)
- カテゴリー
- カフェ · スペシャルティコーヒー · 焼き菓子






















